2021.03.04
自分自身が見つける真のプロフェッショナルの姿
ある旅人が街を歩いていると、1人のレンガ職人に出会いました。
旅人は尋ねました、「あなたは何をしているんですか?」 レンガ職人は答えました「あ、これ?見ればわかるでしょう、レンガを積んでいるんですよ。親方に言われて、毎日毎日、こき使われています」
旅人がしばらく歩くと、別のレンガを積み上げている職人に出会いました。旅人は同じように尋ねました。レンガ職人は答えました「私は、レンガを積んで『壁』を作っているんです」
またしばらく歩くと、3人目のレンガ職人に出会いました。「私はね、このレンガで、『大聖堂』を作っているんです。とてもやりがいがあります」
さらに行くと、4人目のレンガ職人もレンガを積んでいます。「私は、『この街のコミュニティ』を作るためにこうしてレンガを積んでいるんです。どんなコミュニティができるのかワクワクします」
最初のレンガ職人は、親方に言われるがままにレンガを積んでいるだけ。そのレンガ積みが、どのような目的で作られているのかを知りません。知ろうともしていません。やる気もあまり感じられません。
2人目のレンガ職人は、「壁を作る」という目的は認識しているようです。ただし、その壁は誰をどのように幸せにするのか?などは認識していません。壁を作ることが目的になっているようです。
3人目のレンガ職人は、レンガによって「大聖堂」を作ることを知っているので、「大聖堂」によって誰がどのように幸せになれるのかを想像することができます。これによって、レンガを積むという作業にもやりがいと誇りが持てることでしょう。
4人目のレンガ職人は、「この街のコミュニティを作る」という究極のゴールを知っており、箱モノを作った先に人々が集うような様々な利用シーンまでを想像することができるでしょう。また、「この街のコミュニティを作る」という目的感から言えば、レンガによる箱モノだけが手段ではなく、他のやり方もいろいろ考えられるので、目的達成のための幅も広がることでしょう。
この話は、もともとはイソップの童話にあるもので、仕事への動機付けやマインド高揚を目的としたセミナーなどで取り上げられています。仕事に対する取り組み姿勢を対比させる際に引用され、より上位の視点をもち、高い意識で仕事を見つめ直すことで、目的意識を持って仕事に取り組めるようになります。
目的意識が高ければ、目的を達成するために他の手段を選択するような応用の範囲が広がり、ゴールへの到達度もより高まります。何よりモチベーション高く仕事に取り組むことができると言うことです。
この論理構成に異論を挟むつもりはありませんが、ここでの疑問は、先ほどの4人のレンガ職人の中で、最も上手にレンガを積むことができる、レンガ積みのエキスパートは誰なのか?という点です。4人の仕事に対するマインドや目線の置き方は間接的に表現されていますが、仕事の優劣に対しては一切言及がありません。
例えば、1人目の親方に言われたままのやらされ仕事でレンガを積んでいる職人と、4人目のコミュニティを作るという崇高な目的感のためにレンガを積んでいる職人では、どちらが上手にレンガを積めるのでしょうか?
マインドや視点の置き方で、自分自身の仕事の価値を高く考えようというアクションそのものは肯定できるものの、仕事そのものはあまり好きな仕事ではないので、「そのように考えないとやってられない」という取り方もできます。
その仕事そのものへの愛着やプロ意識が感じられず、嫌々仕事をしているようにも感じてしまいます。つまり、この寓話を取り上げている前提は、4人ともレンガ職人としての腕前は同レベルとしており、視点やマインドの高さで結果が変わってくるということを言いたいのだと思います。
では、真のプロフェッショナルとはどのような人のことを言うべきなのでしょうか?ここでの一つの解答としては、「レンガを積むという職務そのものに、最高の楽しみや美学を感じられる人」ではないでしょうか?今、自分が積んでいるレンガが何になるのか?何の役に立つのか?などはどうでもよいこと。
ただひたすらに、「レンガを積む」というその職務そのものと、自分自身の仕事として積みあげられたレンガの姿の美しさ、耐久性、対候性、メンテナンス性、そして誰にも負けない仕事のスピードなど、すべてを複合して高品質さを保証することに、最高の幸せを感じて取り組める人なのではないでしょうか。
このひたむきに仕事に向き合うというマインドこそがプロフェッショナルとしての前提条件であり、このことによって「レンガを効率的に積む方法を発見する」、「美しく積み上げられたレンガの造形に拘る」、「レンガの焼き加減でレンガの脆さが違うことに気付く」「レンガのすき間を埋めるセメントの塗り方を極める」・・・などなどの、様々な創意工夫が生まれてくることになります。
その拘りぬいた、手抜きや妥協などとは無縁のアウトプットが高く評価されることになります。プロだからこそ、所与のものとするレギュレーション(法令など)の遵守は当たり前で、ルールの中で最高の仕事と結果を残すことに強いこだわりと美学、そして仕事への生き様を感じさせる。この前提に加えて、仕事の目的や活用シーンなどの要素が加わり、さらに付加するやりがいを見いだすことができれば、それが最強といえるのでしょう。
例えば、4人目のレンガ職人は、レンガを積み上げること以上に、できあがるコミュニティの様子が重要なのであれば、肝心の積みあがったレンガの造作は雑だったということもあるかもしれません。より上位レイヤーの目的を意識することはとても大事なことですが、今の取り組み自体に楽しさを感じられないならば、その取り組みは、どこかで中途半端さや雑さが残ったり、破綻したりする可能性も高いのではないでしょうか?
現代のビジネスにおいては、様々な状況の中で様々な仕事をして結果を出さなくてはなりません。中には楽しくない、したくない仕事もあるでしょう。そういった時に、視点をあげる、上位レイヤーでの仕事の目的を見直すなど、目先を変えて仕事への取り組み姿勢を向上させるような手法がもてはやされていますが、この手法は果たして本質なのでしょうか?
中途半端にしか仕事に取り組めず、やる気を減退させてしまっている社員に対して、目先を変えることでマインドを上げ、なんとか取り組ませようという施策は、間違いではないにしても対処療法であるといえます。
本質はその仕事にやりがいを見出し、プロフェッショナルとしての能力を磨き、さらに上位のレイヤーの目的感を知るという「高み」への到達であり、それは当人の仕事へのマインドの持ち方次第です。やりがいの持てない仕事に従事するほど、悲劇的なことはないのかもしれません。
自分が最も活躍できる(夢中になって打ち込める)仕事を見極め、その仕事に自分を置いて仕事の成果で存在価値を高めていくこと、そういう意味ではプロフェショナルを育成しやすいJOB型制度というのは理にかなっているのかもしれません。
その職務のプロフェッショナル(誰にも負けない最高の仕事と最高のアウトプットを提供できる自分)を目指し、高みに上がっていきたいという永続する強いマインドがあれば、これまでの様々な育成施策のすべてが有効に作用することでしょう。
マンデー