2015.02.26
争い・分ち合う人間の本質
あるドキュメンタリー番組の中で紹介された「人間集団の統制限界は凡そ150人」という話が興味深かった。
霊長類の平均的集団数は違うのだが、このことは、脳における大脳新皮質のサイズと比例関係があることが発見された。これを「霊長類の法則」と言う。 手長ザル、ゴリラ、チンパンジーの大脳新皮質の割合と平均的集団数を調べると、手長ザル(2.08/15匹)、ゴリラ(2.65/35匹)、チンパンジー(3.2/65匹)。これに対して、人間は(4.1/150人)と飛躍的に集団数を伸ばしている。この150人という数字の論拠は、不思議な事に世界各国に現存する狩猟採集によって生活を営む民族の集団数と重なる。ある機関の調査にると、一緒に儀式などを行う緊密なネットワークを行う民族の集団数の平均値は153人であった。つまり、大脳新皮質の大きさを見れば、霊長類がつくるネットワーク集団数は自ずと決まり、それ以上の集団になると様々な問題が発生し、統制がしにくいサイズになると考えられている。但し、人間だけは霊長類の中で唯一道具をつくる事ができたため、この集団の統制限界を超える事ができた。その道具のルーツは狩猟用の投擲具(とうてきぐ)であった。
最古の投擲具は凡そ5万年前に使用された。人間の進化の過程でいうホモサピエンスの時代に生まれてる。これは槍を遠くに投げるためにつくられたもので、当初の目的は狩猟のためであった。しかし、後に集団を統制する道具としても利用されていく事になる。 古代の投擲具は、オーストラリアの先住民アボリジニが持つ投擲具「ウーメラ」に受け継がれている。「ウーメラ」の射程距離は100Mにも及ぶ威力を持っており、これを狩猟に活用してきた。一方狩猟以外にも利用されており、「ウーメラ」を罪人にも向けていた事がわかっている。初犯の者はかかとを狙って投げられ、2度目の罪を犯した者には足の大腿部に向けて、3度目の罪を犯した者には胸に向けて投げられ命を奪った。 そう、投擲具は狩猟対象から掟を守ることの重要性を伝える道具となり、人々の命を奪う目的にも使われるようになっていった。この威力こそが、人間集団の統制限界を超えさせたのだ。
アメリカ中西部に分布する「ホープウエル」と呼ばれる遺跡の考察からも投擲具を活かした歴史が窺える。「ホープウエル」はアメリカ先住民の集会所であったとされる説が有力なのだが、広大な円形の広場となっている。ここで年に数回、各地に広がる集落から人々が集まり、物々交換や情報交換がさかんになされていた。集まる人数は数千人規模と推定されている。どうやって統制を可能にしたのか?それは「ホープウエル」の広場の構造から窺い知る事がてきる。広場全体は円形の土塁に囲まれており、広場内に向かって内側に堀が造られている。つまり、土塁の上にいる者に対して、内側からの攻撃を受けにくくする構造になっていた。通常、堀は外側にあるものと考えがちだが「ホープウエル」の広場はその逆だ。当時、この土塁の上には「アトラトル」という射程距離150Mに及ぶ投擲具を持った兵士が立ち並び、広場全体を囲んでいたと考えられている。兵士が持つ「アトラトル」が数千人に及ぶ集団に対し、騒ぎを起こさせない抑止力として機能した事で、数千人の人々を統制すること可能にしたと考えられている。
一方で、投擲具は、隣国との争いをエスカレートさせ、殺戮を繰り返す方向にも向かっていった。農耕民族であるパプアニューギニアの原住民は、今でこそ違う村同士が協調的な生活を送っているが、古くは自分の土地の侵略(例えそれが隣村の顔見知りであっても)に対し、全村人の死という形で報復したという。何故、戦いはエスカレートしていったのか? 戦いのエスカレートを考えるにあたり、脳科学的見地からの考察が興味深い。
私たちは「人が誰かに叩かれる映像」を見せられると、脳の「島皮質」という部位が反応する。「島皮質」は不快なものを見た時に反応する場所で、人間の脳は他人の痛みを不快に思う機能を持っている。しかし、同じ映像を見る前に「この人は他人に酷い事をしたので殴られるのはその罰だ」と伝え、それから映像を見せると、脳の「側坐核」という部位が反応する。「側坐核」は人が快楽を得た時に反応する部位だ。殴られる相手が罪を犯した悪人だと認識すると、他人の痛みに同情することなく、殴られて天罰を受けている事に快楽を覚えるのだ。 人間は、同じ映像であっても不快を簡単に快楽に変化させられる。何故なのか、それは人間が集団で生きてきた事に大きな理由がある。同じ集団の顔なじみに罰を与えるのは誰でも躊躇するものだ。そこで、不快な感情を敢えて快楽に変える必要性があった。それ故に掟がつくられ、掟を破るものに対しては、躊躇せずに罰を与え秩序が守られる社会をつくってきた。「土地への侵略の罪には罰を与えろ!」という認識のもと、一気に争いをエスカレートさせてきたのだ。
しかし、人間は長年の営みの中から、争いをエスカレートさせない方向転換を見せた。それは、争い殺し合うのではなく、互いに分け与えるという方向転換であった。 何故、そのような方向転換を見せたのか?その経緯を証明する明確な論拠は存在しない。しかし、パプアニューギニアの儀式にその一端を見る事が出来る。
この儀式は、主催者が近隣の村人を招いて催される。儀式では、主催者が飼育している極めて貴重な家畜の豚が振舞われ、先ず招いた相手にご馳走を分け与える習慣が残っている。侵略に対しては死をもって報復してきた民族が何故、近隣の村人を招き貴重な家畜を分け与えるに至ったのか? この事はホルモン学的見地から見事に説明されている。 戦いには闘争ホルモンと呼ばれる「テストステロン」の分泌が必要である。戦いの前に行われる原住民の「舞いの儀式」は「テストステロン」の分泌を促す効果がある事がわかっている。実は、人間にはもう一つのホルモン「オキシトシン」がある。信頼のホルモンとも呼ばれており、親に抱かれた子供、恋人たちの抱擁の場面で「オキシトシン」の分泌が促されるとされる。また、結婚式の誓いの言葉を言う前と後で、花嫁花婿のみならず、それを見ている周りの参列者も「オキシトシン」を増加させたとされる実験結果がある。人間は他人の喜びに感化される。つまり、人間は「テストステロン」に抵抗するべくこのホルモンを進化させてきたと考えられている。心が触れ合えば「オキシトシン」が増える。集団生活の営みを続ける中でこうしたホルモンの働きが高まり、人間は隣人と協調する関係を手に入れたのだ。私たちの祖先は投擲具によって、生活を営み、掟を守らせ、隣人と争い、そして、分かち合う喜びを知り、集団として生きる事の意味を学んできたのである。
人間は未だ争いを止めない。
親ロシア派武装勢力とウクライナ政府軍が停戦で合意した同国東部では2月20日も散発的な戦闘が続いており、親ロシア派が支配地域を広げたというニュースを見た。ドイツ、フランス、ロシアとウクライナの4カ国は2月24日に外相会談を開き事態の収拾策を話し合うとされているが、停戦実現は難しい局面にあるようだ。争いをやめさせようと抗えば抗う程、かえって争いが蔓延ってはいまいか。 遠い昔、パプアニューギニアの祖先が繰り広げた隣人同士の投擲具による争いと、東欧の隣国同士の争いも、その本質は同じように映る。ウクライナ、ロシアはもとより、仏独には両国にとって最も価値があるものを分ち合うにはどうしたらよいかを考えるべきだ。争うことも、分ち合う事も人間の本質だ。これらの本質を深く知る英知をもち、平和的解決に向けた行動を推し進める事を期待したい。
Spearman