2007.12.10
人生の品質価値(QOL)を極める為に
人間を含めて生物にとって、「死」は避けることの出来ない絶対的な事実である。即ち、致死率100%の現実である。故に昆虫の類に至るまで、本能として生存本能が有り、命の危険に対して逃避行動、つまり防禦行動が認められる。植物での実験では害虫の羽音を録音拡大して近づけると、明らかに植物に感知(人間的表現にすると恐怖の)状態が観察された。この事実は人にとっても同様であり、死に対する恐怖は総ての人が持っている。しかも死は平等に訪ずれる。年齢、性別、貧富、道徳、信仰の如何に拘らず、それは突然に訪れる。今か、直後かも知れないし、明日かも、あるいは10年先かも判らない。死は、未知なるが故に恐怖の対象になる。誰も死後、現生に還って報告した人がいない以上、それは未知の存在であり、避けることの出来ない事実である。
この死に対して生を生命活動(呼吸し、食べ、話し、活動する状態)とすれば、我々は常に死んでいる1秒前、1分前、1時間前、昨日の私は生命活動をしていない。それは記憶と記録の世界であり,いわば死と同意語になる。明日も将来も生は保証されていないし、そこに生命活動はない。とすれば生とは、生命とは、生命活動とは、今この瞬間でしかない。やや哲学めいた話に近くなるが、人間はこの瞬間を最大限に生きている存在であると言える。
今をどう生きるか? これは人にとって極めて重要な問いかけになってくる。クオリティ・オブ・ライフ(QOL)は癌の告知のみでなく、総ての人に対して同様の問いであり、一人ひとりが自分で「答=人生をどう生きるか」を決めなければならない。
生命活動はこの瞬間しかなく、死は年齢に関係なく無差別、平等に訪れるからであるという現実に、若さも、真面目、不真面目も関係なし斟酌なしである。死は余りにも日常的でありながら、自分にとっては非現実的に考えられている。
実は死の学問=科学、哲学、宗教学の全分野で、捕らえることを我々は成し得ていない。最も切実な分野=医学でも死の研究は等閑視されている。西洋医学が患者=人を診ないで、症例、症状のみの追求が患者を生かすことと言う、大義名分でなされる(個人のクオリティの尊重は無視)のも、死の医学(生命倫理)の教育が、医師養成課程で不十分かZEROかに外ならないからである。死の医学=生命倫理の教育がなされておれば、検査漬け、薬漬け、病気探しやいたずらな延命措置はなく、患者中心のタ―ミナルケア(終末介護)が行われ、病人が人権として、人間として尊重され真の尊厳が保たれ、良き生涯を終えられる筈である。
死は全くのZEROかも知れないし、次元を超えた何かがあるのかも知れない。立花隆の科学的取材探究の所産「臨死体験」には、単なる脳内現象(臨死体験としての幽体離脱、安堵感、安らぎ、光り体験などは、予め人間の脳にセットされた機能で、脳内の現象に過ぎないという説)では説明のつかない体験が収録されている。特に幽体離脱では体験者でないと説明がつかない事象がある。
科学者である西丸震也氏は登山もするが幽霊にもあった。山登りの途中休んでいると、登山服のグループ(幽体)が、目の前で体列を組んでサッサッと通り過ぎていった。他の人には見えないが西丸氏には見えたと言う。またヨ―ロッパ旅行中に、ホテル宿泊中の夜、幽体離脱をして日本の我が家に帰り、冷蔵庫から食物を取り出したとき、机の角で膝を打ち、痛いと感じ朝起きて見ると膝に痣が出来ていたとのこと、俄かに信じ難いことだが、一般人ではなく科学者の言では判らないことが世の中にはあるかも、と考えさせられる。
筆者もサイエンティストの端くれとして、幽霊も幽体離脱も信じないが、一度だけ偶然にしては出来過ぎた事態を経験した。それは或る年の2月9日の夜、夢の中で「兄弟弟子」のS君が出てきて旅行に往きましようと誘い、予約してきますと言う。その場所はホテルで実に鮮明な背景、ロビーの背景、談笑している人の姿かたちが実に明瞭で現実的(一般の夢は不鮮明だし、記憶もおぼろげだが)であった。S君とはここ暫らく疎遠であつたが、その年の久し振りの賀状に「某科学技術財団の理事になりました、是非お力をお貸し下さい」とあり、その思いが切実でこの現象(極めて現実的な鮮明な夢)が生じたかと思いながらも、気になって日記にも書き知人にも話した。ところが2日後に共通の税務事務の公認会計士Y君の事務所に行くと、事務の女性がSさんは亡なったこと御存知ですかと言う。筆者が「ああやはり、そうか」と平然としていたので彼女は怪訝な表情だった。
後で照合すると夢の時間が彼の臨終の時間と同じであった。
筆者に予知能力など更々ない。偶然の一致にしては奇妙な出来事であった。医師の体験にも患者の臨死体験がしばしば報告される。科学の限界とも言えるが、スピリチュアルな余地があった方が楽しいかも知れない。
余談はさて置き、死を直視する事で生命の尊さと、その生が今の瞬間、瞬間の存在である事を自覚すれば、その生=生命活動を無駄にせずに、精一杯生きる努力をすることが、QOLであると思うのだがどうであろうか。その自覚があって初めて他の生命の尊重が生れ、他人の営みの理解と共有と言う人間社会の仕組みが成り立つ。"百の説法XX一つ"の諺ではないが、死の教育が人間社会の全般の教育そのものの基盤であると言うのは言い過ぎだろうか。ここにも時間は金で買えない、時間=生命の貴重さがある。それは対極に死があって成立する。
かつて、死は身近の存在であった。祖父母や身近の人の死を直近で見て、突然姿を消した人が死んだと言う体験を皆が持っていた。今は人の死は病院で隠され、子供達は立ち会うことはない。死の理解と生の尊さの自覚は自然には得ることが出来ない。そこには人間以外の生物の命の尊重も、自らの生命の大切さも生まれる事はない。
死とは自然の尊重であり生命の尊重の対極だ。いたずらに恐れる必要はない。それは自然そのもの、スピリチュアルな考え方をするまでもなく、エネルギー不滅の法則は厳然と存在する。その意味で人間は宇宙のエネルギーと一体の存在でもある。この世に生を受けて、その瞬間、瞬間を充実した時間として生きる事が、自分にとって最高のクオリティであるという自覚をもつことを希求して止まない。