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2012.06.27

裁判員制度導入から3年:裁判員制度は目的を達成することができたか

2009年5月に裁判員法(正式名称:裁判員の参加する刑事裁判に関する法律)が施行され、裁判員制度がスタートしてから3年が経過した。裁判員制度は、無作為に選ばれた有権者が裁判員となって刑事事件の裁判に参加し、裁判官とともに有罪無罪の判断、また量刑の判断を行う制度であり、殺人罪、傷害致死罪、強盗致死傷罪、覚醒剤取締法違反など、特定の重大な犯罪が対象となる。これまで、2万8千人を超える有権者が裁判員として参加しており、死刑判決が確定するケースもあるなど、重大な判決に裁判員が関わるようになってきた。 裁判員法では施行後3年経過後に必要に応じて見直す、という規定が設けられており、今年5月に東京地裁で裁判員経験者8人と法曹三者(裁判官、検察官、弁護士)の意見交換会が行われるなど、徐々に制度の見直しが始まっている。 今回はこれまでの裁判員裁判の結果を振り返り、裁判員が有罪無罪の判断に参加すること、裁判員が量刑の判断に参加することの2点が、裁判員制度導入の目的であった国民の司法に対する理解・信頼の向上にどれだけ繋がっているかを考えたい。 まず、裁判員が有罪無罪を判断する点について見てみると、裁判員裁判と裁判官裁判(裁判官のみの裁判)とで、全く異なる判断が下された裁判が複数あった。それらは、いずれも覚醒剤密輸(覚醒剤取締法違反)事件であり、被告人は海外から覚醒剤を持ち込んだいわゆる「運び屋」だった。これらの裁判において、裁判員がいる1審で無罪、裁判員不在の2審では有罪という全く異なる判断がなされた。その後、最高裁まで争われた結果、最高裁が1審の結果を支持し、無罪が確定した。これは、最高裁が1審の裁判員による判決を尊重すべきことを明示したものであり、今後の裁判員裁判にも影響を与えることになるだろう。では、今回、最高裁が裁判員裁判の判決を支持したことは、国民の司法に対する理解・信頼の向上に繋がっているのだろうか。 これらの覚醒剤密輸事件では、被告人に覚醒剤を運んでいる認識があったのかという「故意の立証」が争点になった。つまり、裁判員は被告人にしか真実が分らないことを、検察が用意する証拠や証言、被告人の証言や弁護人の話から判断することが求められていた。その結果、当該裁判において、裁判員は検察の用意した証拠や証言では、有罪とするには不十分であるという判断を下したのである。 この結果に対して、裁判員には法的な専門知識がなく、被告人や証人が話すことが真実であるかを見抜くような特別なスキルや経験があるとは限らない為、正しい判断ができないのではないか、これでは国民の信頼に足る判決にはならないのではないか、という懸念を唱える意見もある。だが、刑事事件においては、検察側に被告人が犯罪行為を行ったことを立証することが求められている。そして、その立証は「合理的な疑問を残さない程度(常識に照らして疑問の余地はないと確信できる程度)の証明」であることが求められている。 ということは、法的な専門知識やスキルを持たない一般市民の常識でも、被告人の有罪が確信できる程度の証明が検察には求められているはずだ。従って、今回の裁判で、例え裁判員が法的な専門知識がなく特別なスキルを有していなくとも、一般市民としての常識をもって検察が立証する内容と対峙すれば、何ら問題はない。これは、弁護人が用意する証拠・証言に対しても同様である。 そもそも、従来の裁判官裁判において、法曹三者が有罪の判断根拠を、国民が納得できるように説明できるのであれば、判決に一般市民の常識を持ち込む必要は無い。それにも関わらず、わざわざ有罪か否かの判断に一般市民の常識を持ち込む必要があるとしたら、法曹三者の常識だけではなく一般市民の常識によっても判断することで、有罪(えん罪)を防ぐためにある。万が一、えん罪となれば、被告人は不当に自由や権利を奪われ、その後回復することができない程の被害を受けることになる。従って、裁判員制度によって、一般市民の常識から見ても疑う余地がないと確信できる根拠で有罪無罪を判断できるようになったことは、国民の司法に対する理解・信頼を向上させるという目的に沿ったものであり、一定の成果があったと認めて良い。 では、次に裁判員が量刑の判断をすることについてはどうだろうか。最高裁が殺人や傷害致死、強姦致傷など8つの罪を対象に、2009年5月から今年3月までに判決が出た裁判員裁判(2884件)と2008年4月から今年3月までに判決が出た裁判官裁判(2757件)の量刑を比較調査した結果によると、裁判員裁判では強姦致傷事件や傷害致死事件が厳罰化する傾向があることが分かった。 例えば、強姦致傷事件では、裁判官裁判(201件)は「懲役3年超~5年以下」が72件で35%と最多だったのに対し、裁判員裁判(198件)は「同5年超~7年以下」が60件で30%と最も多かった。また、傷害致死事件と強盗致傷事件でも、裁判官裁判は「同3年超~5年以下」が最多だったのに対し、裁判員裁判では「同5年超~7年以下」が最多であった。 一方で、ある殺人未遂事件の裁判員裁判では、検察側の求刑や弁護人が主張する量刑よりも、さらに下回る量刑の判決が出たこともあった。これは、被告人に対する情状酌量をより重くみた結果のようだ。 過去の裁判官裁判とは異なる理由で量刑が判断されたことは、量刑の判断に一般市民の常識が持ち込まれた効果であり、国民の司法への理解・信頼の向上に寄与していると見る人もいる。だが、私の見方は異なる。なぜなら、裁判員は量刑を適切に判断する基準を持っておらず、罪に対して罰がどうあるべきなのかを正しく理解しているわけでもない。裁判員が、本来罰とはどのようなものであるべきかを考えないまま、個々の裁判の事情に応じて量刑を判断することは個々の裁判では良くても、本来の罰の存在意義を損なう可能性もある。 法律の専門分野では、罰の在り方を整理するものとして、罰には一般人が罪を犯すことを抑止する効果(一般予防論)と罪を犯した者の再犯を予防する効果(特別予防論)が期待されているという考え方がある。これは、罪を犯せば罰が科せられることを世に広く知らしめることで、罪を犯すことを抑止し、罪を犯した本人には再犯を予防することを狙いとした考え方(教育刑論)である。一方で、ある罪を犯したならば、それに見合った罰を当然に科すべきであるという考え方(応報刑論)もある。ちなみに、日本では教育刑論・応報刑論の両方の側面を否定せずに折衷した考え方の相対的応報刑論であるというのが通説とされている。 では、裁判員裁判における量刑の判断は、どのような考え方で出されたものであったのだろうか。各メディアで取り上げられた裁判員経験者のコメントを見ると、被告人の行為に憤りを感じて当然に重い罰を与えるべきと感じた瞬間もあれば、被告人の事情や将来、再犯の可能性を考慮すると罰がこれで妥当なのかを考えた瞬間もあるなど、裁判員には量刑を決めるまでにかなりの葛藤があったことが伺える。結局、裁判員は担当する裁判だけを対象に、自分自身の常識や良心に基づいて量刑を判断するしかない。 ところが、世間には裁判員の判断に影響を与えうる情報がたくさん流れている。例えば、人の命が無用に奪われるような痛ましい事件・事故が起きると被告人に厳罰を科すべきという論調や事件と世間の興味を引く事件では事の真偽が分からないような情報までが流れる。裁判員が、罰とは本来どうあるべきなのかを理解しなければ、これらの情報の影響によって、厳罰化に傾いたり、逆に情状酌量されて減刑されたりするなど、裁判員自身の常識や良心に基づいて量刑を判断することが難しくなることも十分にあり得る。 裁判員制度導入の目的が、国民の司法に対する理解と信頼の向上ならば、司法自身が過去の裁判の何が問題で国民の理解と信頼を得られなかったのかを明らかにして改善することをしないまま、有罪無罪の判断を超えて、量刑の判断までを裁判員に委ねることにしたことは、時期尚早だったと思わざるを得ない。 国民の司法に対する理解と信頼を得ることが目的であれば、国民を裁判に参加させて判断を委ねる前に、国民が理解し信頼を寄せる罪と罰の在り方を明確にし、国民に明示すべきである。もし、そのような検討が行われていたならば、量刑を裁判員の判断に委ねる前に、罪と罰の重さ自体や、量刑相場に対する考え方自体を見直すことも出来たはずであり、そのことで十分に国民の司法に対する理解・信頼の向上を得られたかもしれない。 今、裁判員法は見直しの時期に来ている。この3年間で得られた裁判制度の成果と課題をうやむやにすることなく、しっかりと見直しを行い、目的に沿った裁判員制度へと改善して欲しい。そして、国民の理解と信頼を得た裁判員制度が定着した時には、今は一部の刑事事件に限定している対象を行政裁判も含めるなど、国民の生活に大きな影響を与える裁判にも対象を広げて貰いたい。今後、国民の生活や権利を守る司法として、より身近で頼りになるものへと改革が進むことを期待している。

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