2009.09.15
論理思考の罠
一昔前から、書店のビジネス書籍コーナーでは「ロジカルシンキングができる」「論理的思考が分かる」と銘打った論理思考関連の書籍が多く目につくようになった。
論理思考の多くは、その理論的背景を米国の思考方法論をベースとしている。輸入されてきた思考方法ということである。にもかかわらず、本家本元である米国の書店では、これだけ多くの論理思考関連書籍は置いていない。日本に輸入されてきた「思考方法」が日本の中で独自に再解釈され、展開されているとみてもいいだろう。何故、日本でこれだけ論理思考に関連する書籍が需要されるのだろうか。
二つの理由が考えられる。
まずひとつめは、日本人の中には論理思考が得意でないことをコンプレックスに感じている人が多い、ということだ。
二つ目に、現在の論理思考ブームに特徴的なのは、論理思考についての研究学習ではなく、「今すぐ」「ビジネスや学習の場で使える」汎用スキルを求められていることだ。
ひとつめの理由について検証してみよう。一般に、日本人は論理思考が苦手と言われている。しかし、これは本当だろうか?糸井重里氏は「人間は科学よりも宗教が好きだ」と発言しているように、元来人間は自然な状態で論理思考は行わないし、ストーリー仕立てで得られる情報の方が単なるデータよりもはるかに処理しやすく出来ている。その最たるものが宗教であろう。科学的な裏付けや客観的判断の可能なデータで説明されなくとも、多くの人が生涯を通じて教義を守ることに心を砕くこともある。それは、感情的な部分に訴えかけることが、論理的・科学的な正しさ以上に、人の心に受け入れやすいことを示している。このことは、認知心理学の分野でも繰り返し確認されている。人間の思考は感情的・物語的思考モード(Experiential System)をベースとしており、論理的・分析的思考モード(Analytic System)以上に、日常的な意思決定は感情的・物語的思考モードを使って行われるという。つまり、「論理思考が苦手」なのは、日本人に限った話ではない、ということだ。
では何故、そのような認識が生まれるのか。これには、日本語の持つ特徴や「曖昧さ」の美学を持つ日本の文化的背景も要因にあげられるのではないだろうか。日本語の特性として、主語の省略が可能であったり、主語・述語・目的語などの位置が柔軟に変化することがある。一方、英語の場合は、言葉の順番によって大きく意味が異なってしまうため、順序などの規則性がより重視される。また、日本文化上の美学として協調性を重んじ、Yes-Noをはっきりさせない物の言い方をしがちである。当然、日本国内で閉じていた段階では互いに理解し合うことも可能だっただろうが、グローバルなビジネス環境においては「日本語は論理が不明瞭」「日本人は結論を下せない」などと判断される可能性は多いにある。もちろん、論理思考に関連するトレーニングが義務教育の段階で十分に行われてこなかった、という理由もあるだろうが、これらのことが相俟って、「日本人は論理思考が得意ではない」との認識を生じさせるに至っていると考えられる。
また、二つ目の理由について検証してみると、論理思考に対する過大な期待が感じられる。「今すぐ」「ビジネスや学習の場で使える」論理思考が求められている状況は、理論的背景はどうでもいいから使い方だけ教えてくれ、という昨今の日本人お得意の「良いとこ取り」だ。近年は雑学や古典の名著に対しても、同様の傾向がみられる。「明日から使える」「1冊で分かる」がキャッチコピーになって古典を全て読まなくとも概要が分かることや、その分野に精通した知識がなくとも蘊蓄を語ることを可能にする書籍が数多く出版されている。また、書籍だけではなく、テレビ番組でも同様の番組が数多く放送されている。真の意味で理解する必要はなく、理解しているように周囲から見られれば良い。その傾向に従えば、上述したような、日本人が論理思考を苦手とする理由として考えられる文化的背景・言語的背景を理解しないままに、テクニックとしての論理思考方法だけが求められている状況と言える。そして、論理思考のテクニックそのものに対しては、論理思考を持つこと=「ビジネスの成功者」とでもいうような扇動的なキャッチコピーが数多く用いられており、論理思考の本来持つ価値を超えた、過剰な期待を抱かせているように見受けられるのだ。すなわち、「論理思考の苦手」な日本人が、論理思考のテクニックを身につけることによってビジネスで大きく飛躍する、という期待のもとに、昨今の論理思考ブームは成り立っているといえる。
では、論理思考を学習することは、本当にビジネスで成功するための秘訣になり得るのだろうか。
グローバルなビジネス環境の中で、意思決定に際してより論理的な説明能力が必要になったことは事実である。そして、論理的な説明能力を高めるために確かに論理思考は有意義であろう。皆まで言わずとも理解し合うことの可能な単一文化圏におけるビジネスから、多種多様な文化的背景を持つ諸外国と意思疎通を図ってビジネスを行う環境への変化を受容するうえでは、文化に裏付けられた暗黙の了解や商習慣は機能せず、共通言語として論理性こそ機能しうるからである。個人主義が進み、多様性が認められるようになった現代環境においては、単一文化圏の中のビジネスにおいても、論理的説明能力が意思疎通に有効に働く場面も確かに増大している。しかし、これはあくまでも意思疎通を行うためのツールとして、その価値を発揮するものである。
日本人はこれまでもビジネスの現場で、多くの合理的な意思決定を積み重ねており、それがあってこそ経済大国として成長を実現してきた。しかし、これまで日本経済を牽引してきたトヨタやソニーのような企業のビジョンは、論理性だけで語り切れない多くの要素を持っている。ソニーの井深大は世界最小のトランジスタラジオの開発を社員に向けて指示したが、当時の技術力やトランジスタに対する技術ライセンスの提供を米国企業から受けるにあたっての日本政府の対応など、”論理的に"考えると無理と判断せざるを得ない要素は数多くあった。しかし、世界最小のトランジスタラジオに対する熱意、それを持ってソニーの名を世界に知らしめる意欲ともいえるものが社員を奮起させ、実現に導いた。
論理思考は、問題やリスクを整理するのに有効である。また、異なる価値観を持つ相手に対して意思決定の根拠を伝える際の説明能力にも長けている。しかし、論理思考だけでは新しいビジネスが創造されることはないだろうし、ビジネスの成功者になれるわけでもない。むしろ、論理思考によって整理された問題やリスクに阻まれビジネスのチャンスを逃す可能性すらある。安易な論理思考ブームにのって、何も生み出さず批評するばかりのビジネスが横行する社会にならないことを望むばかりである。
馥郁梅香