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2008.06.12

改革?改悪? どうなの?裁判員制度

 今から数年後、ある三十路男の夏のお話。
 「あぁ、もう朝か・・・。今日も眠れなかったな・・・。」
連日熱帯夜が続いているし、寝苦しいのも確かだ。地球温暖化は、着実に進行しているらしい。でも、私が眠れないのは、寝苦しいことが理由じゃない。ずっと、彼の顔が頭から離れない。最近は、夢の中にまで出来てきて、私を問い詰めるようになった。「何故、俺が死刑なんだ!?」と・・・。
 彼とは、私が裁判員として参加した裁判の被告人。その彼の顔が、寝ても覚めても頭から離れない。私が彼に下した判断は死刑だった。裁判員の中でも意見が割れていたが、私には弁護人の言うことが矛盾していると感じられ、何より芝居じみた話し方がおよそ信じられなかったし、検察の用意した主張や証拠の方が確かに思えた。私なりに何が正しいのかを真剣に考えて、自信を持って出した結論だった。それは間違いない。だが、TVや新聞であの裁判の事を見聞きするたびに、あれでよかったのかと自問自答を繰り返す。何しろ世論も、死刑判決支持と不支持が半々だったのだ。今では、気がつくと自問自答を繰り返し、眠れない夜が続いている。もう、耐えられそうにない・・・。
 さて、あまりに唐突でオーバーだったかもしれないが、こんなことが数年後の自分にも本当に起きるかもしれない。

 平成21年5月21日、裁判員制度が施行される。これにより、ごく普通の国民が刑事事件の裁判に参加することとなった。なお、裁判員制度の対象となる事件は、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」によって、次の通り定められている。
 ①死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件(同法 第2条1項1号)
 ②裁判所法第二十六条第二項第二号(※)に掲げる事件であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた
  罪に係るもの(同法 第2条1項2号)
  ※地方裁判所において3名の裁判官による合議体で取り扱う事件を定めた条文
 つまり、裁判員制度の対象となる事件は、被告人に死刑が言い渡される可能性がある事件や当該事件の被害者が死亡するに至った重大事件である。さらに要約すれば、被害者か被告人のいずれかの「死」に係る事件が対象ということになる。
 そして、裁判員は被告人の有罪か無罪かの判断だけでなく、有罪の場合は量刑までも判断しなければならない。このような判断に参加しようというのだから、確かに耐えられそうにない、と思う人は多いのではないだろうか。

 とは言え、裁判員制度の良し悪しを、裁判員となる国民のストレス面から考えてばかりもいられない。そもそも、裁判員制度とは「司法制度改革」によって生まれたものである。視点を変えて、裁判員制度が本当に「改革」に足りうる制度なのかを見極めたい。

 まず、制度導入の狙いは何だったのか。本制度の狙いは、国民にとって理解するのが難しい刑事裁判を分かりやすく身近なものとし、司法に対する国民の信頼を向上させることが大義名分のようだ。裁判官と国民が一緒になって、それぞれの知識と経験をフル稼働させて一緒に判断することで、国民の理解と信頼を得ようというものだ。(これを「裁判員と裁判官の協働」と呼ぶ。)
 確かに、裁判所の下す判断は、法律という高度な専門知識が不可欠なことを差し引いても、複雑で非常に分かりにくいことが多い。ましてや、死刑適用の基準とされる、俗に言う永山基準などは、その是非を一読して判断することなど、一般の国民には到底できそうもない。仮に、裁判所がその基準について国民に説明したとしても、犯罪者が殺害した被害者の人数によって死刑判決の適用を使い分けた理由や、その後多くの裁判がその基準と比較衡量しながら死刑判決を下している理由を、国民が理解することは難しく、さらに納得するなど遥か先の事のように思える。
 また、京都地裁でのタクシー運転手に対する「雲助発言」など、裁判官の世間知らずとも思える発言が司法への信頼を失墜させているのも事実だ。そのような裁判官が判決を下すのでは、自らの将来を委ねる被告人も、被害者の関係者も、およそ納得できまい。(無論、そのような裁判官が多くを占めるわけでないだろうが)

 こうした事実があるならば、国民が裁判に参加して、社会常識から外れた裁判官の判断を正すことの意味もありそうだ。だが、本当に国民が裁判員として裁判に参加することで、国民にとって分かりやすく、信頼される司法になるのだろうか?
 答えは、否。裁判員制度1つで、国民の理解・信頼を得る裁判になるとはおよそ言い難い。そう考える理由は3つある。

 1つは、国民が理解し難いのは裁判所の判断だけではない、ということ。弁護人の主張や検察側の主張が、国民の感覚と相違があることも少なくないはずだ。裁判員は、裁判官と合議する以前に、弁護人や検察の主張の真偽を判断するのであるから、弁護人や検察の主張も見逃してはならない。死刑判決や冤罪事件を巡る論争が、裁判所ではなく、彼らの主張・行動によって起因することが多いことからも見逃せない重要なものであることは明白だ。
 実は、裁判所の判断よりも、よっぽど彼らの主張の方が国民にとって難解なものかもしれない。更に、裁判員は、彼らの主張を理解するだけでなく、それぞれの主張の論理的破綻をも見抜き、時には嘘の主張・証拠を見抜かなくてはならない。(ここまでくると、もはや法律の専門知識とは関係がないだろうが)
 無論、裁判員に対して、弁護人・検察が自らの意に沿う判決を得るために、分かりやすく工夫を凝らしてくることは間違いない。だが、それも行き過ぎれば、法廷はもはや劇場化し、冒頭の三十路男のように、考えているつもりでも、実は印象評価によって判決を下すという結果にもなりかねない。ともすれば、法律の専門家だけで議論していた時代よりも、はるかに表層的なこと、情緒的なことで、判決が下されるかもしれない。

 2つ目の理由は、司法が国民の理解・信頼を得られない理由は、司法だけでなく立法府(国会)や行政府(内閣)にもあり、そもそも国民の知識不足に起因することもある。例えば、犯罪の低年齢化もあって、少年法の是非について関心をお持ちの方は多いだろうが、これは立法府で議論される問題である。また別の例を取れば、2007年の刑法改正で「危険運転致死罪」が新設されたが、これは従来法で定められていた量刑と、国民の感覚との間に相違があることがきっかけで検討が始まったもので、立法府により解決策を検討したケースである。ところが、実際に施行されて行政府の視点に移ると、危険運転致死罪は、実は立証が極めて難しく、適用しにくい刑罰として評判になるという別の問題が生じており、国民はがっかりするのである。

 3つ目の理由は、控訴審以降、すなわち第二審以降は裁判官のみで行われる、ということ。確かに、法律に対して未熟、かつ経験不足の裁判員が、劇場化した裁判で誤った判断をする可能性は否めない。だから、これはこれで妥当な判断とも言えよう。だが、これでは裁判員制度とは何のためのものなのか、とも言わざるを得ない。「俺の苦悩は何だったんだ!」と、冒頭の三十路男の恨み節も聞こえてきそうだ。
 裁判に国民の判断が加わることで、これまでの裁判所の判断に一石を投じることは期待したいところだが、それが期待できるのも地裁で行う第一審まで。裁判員の判断が、これまでの裁判所の判断基準や先例を覆すほどの影響力を持つようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

 3つ目の理由だけでも、裁判員制度が本当に意義のあるものとなるには、まだまだ長い道程があることが容易に推測されるし、この制度をもって国民の理解と信頼を得ようなどとは、随分乱暴な話である。これでは、とりあえず国民から裁判員を選抜し、判決を下すプロセスに巻き込むことで、国民の意見を聞く形を取り、裁判所の判断を攻撃しにくい雰囲気を醸成しようとしているようにしか見えない。事実そうだとしたら、これは司法制度「改悪」というべきものだろう。

 国民の理解・信頼とは、とりあえず国民を参加させたからといって容易に得られるものではない。本当に司法制度改革で国民の理解・信頼の獲得を目指すのであれば、まずは問題の所在がどこにあるのかを明らかにする必要がある。その上で、その解決策を検討する場面にこそ、国民の期待や意志を反映すべきである。また、国民の理解を促進するためは、裁判への強制参加ではなく、まずは国民に司法への興味・関心を喚起するような打ち手が必要だ。とりあえずの近視眼的な考えでは、およそ「改革」など成し遂げられまい。

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