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2023.03.16

蓮の芽いづる

 私に特定の宗教に対する信仰はない。神の存在も信じていない。にもかかわらず宗教に多大な関心を寄せていることを自覚している。

 人の創作物の最高傑作を問われれば、私は宗教と答えるだろう。多種多様な神々を生み出した創造力、世界中の人々の心をとらえ、時には衝き動かす影響力、これに勝る創作物を私は知らない。

 その宗教だが、世界中の神々の持つ力をつまびらかにして行くと、人間の根源的な願望を見せつけられているような気になってくる。例えば、である。

 世界中を凄まじい速さで移動する。世界中の出来事を把握する。人々に知恵を授ける。未来を予知する。衆生の声を聞き、声を届ける。人の心を読み取り、操る。火や水や風を司る。世界を照らし、闇にも落とす。病を治し、生命をも創造する。世界を滅ぼしかねない破壊力を発揮する……など、挙げて行けばきりがない。

 こうして見ると、神々は人類が実現し得ることの壮大な仮説であり、仮説を導き出した願望は科学を発展させる原動力にもなっていたに違いない。現に科学が、神々の力を実現できたこと、その度合いを調べてみると、人類は相当に神の力を手に入れてきたことが分かる。いやむしろ、人類が急速に神に近づいてきたと言うべきか。視点を変えれば、科学がまだ実現しきれていない神の力を洗い出せば、これから人類が科学の力で、何を成し遂げて行くのかを予測することもできるだろう。

 しかし、いかな科学が進歩しても、永遠に手に入れることのできない神の力がひとつある。死後の世界を見ることだ。今日の科学では、現世の記憶を残しながら死後の世界を見ることは叶わない、と結論付けられる。こればかりは越えようのない壁だ。となれば、願望だけが残ってしまうことになる。

 ところが、である。人が神に近づくとの実感を抱くにつれて、宗教を必要とする心情に傾きつつあることを、自覚する自分が現れてきた。ほんの数年前までは、私が死んでも宗教儀式はいらないし骨は海にでも流してもらえばよい、と遺言書に書いていた私が、である。さりとて、特定の宗教に対する信仰心が生まれたわけでもない。にわかに神の存在を信じるようになったわけでもない。

 きっかけは数多あった。還暦を過ぎると、社会的な儀式に参加する機会は、その大半が葬儀となる。きっかけの多くはそれだった。他人だとは割り切れない、私の人生に多くの影響を与えてくれた人の死は、歳を経るごとに受け止め方を深くする。おそらくは自身の死や、大切なパートナーの死に現実味が増してきたからだろう。葬儀の場で、遺族が喪失感を乗り越えようとする姿も、自分事と思えるようになってきた。若くして父を亡くしたときよりもはるかに、である。

 ところでその葬儀だが、喪失感を和らげる数多の術が、葬儀儀式の中にはあった。厳かな祭壇には、もうここにはいないのだと、優しく突き放すさとしがあった。しめやかな音曲には、どこか寄り添う風情があった。僧侶の言葉には残されたものへの励ましがあった。法要の日取りには、時間とともに喪失感を浄化させる作用があった。遺族にはその人が晴れ晴れとして浄土にある姿を想って欲しい、参列者のそんな願いを醸し出す作用までも感じられた。

 創作と鑑賞とによって精神の充実する体験を追求する文化的活動を芸術とするならば、宗教もまた芸術のひとつのジャンルであるのだろう。科学の力を駆使しても死後の世界を垣間見ることは叶わないが、宗教という芸術作品は、どこかに浄土はあるのやも、そう思わせる精神作用を秘めていた。そして思う。大切な家族には、宗教儀式で送って欲しいと。中庭の手水鉢に、蓮の芽が顔を出した。

 

方丈の庵

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