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2020.05.11

古武道から読み取る人材育成の階梯

 古より伝承されてきた武芸の育成方法は、四つの「相」で成り立っており、四つの「相」はそれぞれに三つの「階梯」を通して上達への道筋を解く。この四つの「相」を現代風に言い換えると、カリキュラム、スキル、ライセンス、マイルストーン…だろうか。それぞれが密接に連動しているのが面白い。

 数百年の時が紡ぎ上げてきた育成方法で、ビジネスパーソンの育成に応用できるかもしれない。以下、詳細を説明するが答えは読者に委ねたい。想像力を働かせて読んで欲しい。

 

 一つ目の「相/カリキュラム」は、「真・行・草」の三つの階梯で成り立っている。

 「真」とはあらゆるスキルの根幹を成す「生活習慣」づくりの階梯だ。箸の上げ下ろしから日常の歩き方まで、どのように体を使うべきかを細やかに導く。そのため「真」の階梯を修めた者は、座っている姿や町中で歩く姿を見ただけでそれと分かる。ドライバーは「意識」だ。身体意識とも言い筋骨の物理的な動作の説明ではない。これを習得するために「一人型」がある。「真」の階梯で習得する型は実践的な戦い方を教えるものではない。それは「型」につけられた名を見れば解る。「八重垣」、「五月雨」、「波返し」、「朝顔の開花」、「叢雲」など、実に風情がある。およそ殺人の手段を教えるものとは思えない。波のように背中を動かし、雲のように歩き、朝顔の蕾がほどけるように指を開く…など、これらは一種のメタファーであり体を使うときの「意識」のありようを示している。それによって武芸に不可欠な無拍子(リズムを取らない)、無重心(ためをつくらない)、等速度(加速動作をしない)など、近代スポーツとはかけ離れた身体操法の感覚を身に着けながら、「生活習慣」として定着させる。つまり、マインドセットとビヘイビアチェンジであり、それらは、その後の確実なスキルアップを導く。

 「行」とは実戦における標準的な対処方法を身に着ける階梯だ。相手がこう来たらこう返す…をモデル化して一対一、あるいは一対多で徹底的に反復する。モデル化された対処方法は、打太刀(先に仕掛ける方)と仕太刀(受けて返す方)に分かれて訓練する。それを体系化したものが「組み型」だ。しかし、「真」の階梯を正しく習得していない者は、打太刀を先に仕掛けて負ける方、仕太刀を受けて返して勝つ方と勘違いする。組み型には、身に着けるべき「理合」が一つの型に一つずつ仕組まれてある。理合とは「真」の階梯で身に着けた身体操法の感覚を実戦に活かすためのコツのようなもので、実戦での応用力を引き出すためのエッセンスだ。例えば、相手との間の取り方や外し方、生理反射の誘い方や止め方などで、それらを丁寧に身体に覚えさせる。見た目にも地味でやる方も根気がいるが、そうして身に着けた理合だけが実戦における刹那の切り合いで役に立ち、更には武芸十八般にも応用できるようになる。単に切り合いのパターンを覚えるのではない。考えてもみて欲しい、数多の流派の千変万化の攻撃に対処する方法をいちいちパターン化して覚えていては、人生が千年あっても足りはしない。ところが、多くの人は「行」の目的を見失い、表層的な勝ち負けの概念で稽古をしてしまう。勝ち負けの概念を持ち込んだ稽古は、見た目にかっこよく、仕太刀をやる方は気分もよい。しかし、それでは単なるチャンバラごっこで、体操程度の効果はあっても実戦で役立つ理合は身につかない。「行」はエッセンスを体系化したものという観点でフレームワークのようなものかもしれない。フレームワークは情報整理のフォーマットではなく精緻に構築された論理思考のエッセンスだ。組み型は技術整理のフォーマットではなく精緻に構築された感覚体系のエセンスだ。ところで、「行」の階梯では打太刀が重要な役割を担う。打太刀の本質は導きであり、仕太刀が身に着けるべき理合を導き出す。そのため、打太刀は上位者が行うことになっている。つまり、打太刀が行うのはコーチングだ。

 「草」とは臨機応変にして自由自在に戦えるようになるための階梯だ。型はなく「地稽古」が中心となる。目的は一人型で学んだ技術の習得度と応用性を確かめることに置かれている。勝ち負けを決めるものではない。因みに、勝ち負けを決める「試合(死合)」を行わない流派は多い。技術の乱れをつくるからだ。実際に、身に着けてきた理合が崩れ、ただのチャンバラになってしまうのを見かけることも少なくない。それは取りも直さず生活習慣づくりと理合の習得が不十分だったことを意味する。逆に生活習慣づくりを怠らず、極限まで理合を磨き上げてきた者同士の地稽古は独特の風格を醸し出す。加速動作はなく、速くはないが技の出は凄まじく早い。動作には溜めも捻りも見られない。先を読むのは勿論のこと、先の先、後の先、先々の先まで読み合うものだから、互いにただ佇むだけという状態も暫し現れる。つまり、そのようなやり取りを通して互いの力量をアセスメントし合い、フィードバックを得るわけだ。

 

 二つ目の「相/スキル」は、「技・術・芸」の三つの階梯で成り立っている。

 「技」とは、正しく体を遣い、正しく得物(刀や槍など)を遣うことを言う。「真」の階梯ではこれを学ぶが相手はいない。「術」とは、相手に技を掛け、相手の技を返すことを言い、「行」の階梯でこれを学ぶ。「芸」とは、刀を下ろすところに相手が勝手に首を差し出すような境地のことで、「草」の階梯でこれを学ぶ。

 これらはコミュニケーション・スキルの上達レベルにも符合する。具体的には、プレゼンテーションやアクティブリスニングやネゴシエーションなどで、成功しようがしまいが先ずは上手にできるか否かの技のレベルもあれば、巧みに相手に対処する術のレベルもあり、究極は相手が勝手に成功させてくれる「芸」のレベルに至る。

 

 三つ目の「相/ライセンス」は、「初伝・奥伝・皆伝」の三つの階梯で成り立っている。

 「初伝」とは、「真」の稽古を通して技を完全習得した階梯を言い、毎日欠かさず半日を費やして千日(三年)以上かかる。二、三時間の稽古であれば七年だ。「奥伝」とは、「行」の稽古を通して「術」を完全習得した階梯を言い、初伝の階梯と並行して取り組んでも、万日(三十年)はかかる。「皆伝」とは、「草」の稽古を通して「芸」の高みに辿り着いた階梯だ。いわゆる免許皆伝で、ここで初めて流派の看板を背負って人に教えることが許される。だが、「才」のある者でなければ生涯辿り着くことはない。ところで、この階梯も「初伝」や「奥伝」と並行して取り組むものとされており、才のある者であれば「奥伝」を得たのち数か月後に「皆伝」に辿り着く。

 では才とは何か。五感の言語化学習を通して物事の精妙な点まで悟ることのできる感覚であり、武芸は勿論のこと音楽や文学や様々な分野の技術者も、大成できるか否かは才の有無にかかっている。ビジネスも例外ではない。その才だが、生後八ヵ月で土台が完成し、六歳までの生活習慣によってつくられる。才の発達は家庭環境にかかっている、と言えるだろう。タレントマネジメントで管理すべき情報の本当の起点は、幼少期(プレスクール)における学びの記録かもしれない。

 

 四つ目の「相/マイルストーン」は、「守・破・離」の三つの階梯で成り立っている。

 「守」とは、道統を守ることで、流派の教えや風格を正確になぞる階梯を言う。つまり「真・行・草」のカリキュラムを通して、正しく「技・術・芸」を習得する階梯だ。六歳までに培った才を土台に、三十年を費やすこととなる。ビジネスの世界では、三十五歳でコンピテンシーが確立されると言われているが、この時間軸の共通性は偶然ではない気がする。

 ところで、どのような流派も、それが草創されたときの時代背景や、そのとき使われていた道具の性質や、創始者の性格や体形などが流派の教えや風格に影響する。つまり、それらが変われば何が正しいのかも変わることとなる。そこで、新たな工夫と改善が必要になり「破」の階梯に進むこととなる。「破」とは、環境の変化に適応しながら「真・行・草」と「技・術・芸」を改めるために試行錯誤を繰り返す階梯であり、創造のために破壊する階梯とも言えるだろう。目指すマイルストーンは「イノベーション」だ。つくり上げてきたものを本当に破壊するためには、つくり上げてきたときと変わらない年月がいる。

 そして、イノベーションを実現した者だけが「離」の階梯に辿り着く。全く新しい流派の誕生であり、いわゆる「開眼」だ。「守」の階梯も、「破」の階梯も、それぞれに膨大な時間を要するが、「離」の階梯は「破」の終わりのすぐ隣にある。これは閾値論にも通ずる。つまり99%まではさほど大きな変化はないが、100%になった瞬間に世界が変わるのである。面白いことに、武芸の道を選び、「守」を極め、「破」を務め、なぜか武芸ではなく茶や書や絵、あるいは仏道や政の道に辿り着く者は少なくない。まさしく「ビジネスモデルの相転移」であり、そこに武芸の育成方法の面白さがある。

 武芸を極めた者の「開眼」は六十代半ばに集中している。そこが武芸者としてのピークなのだ。六歳で才を育み、三十代で「守」を極め、六十代まで「破」に勤め、六十代半ばで「離」に至る。この時間感覚が格闘技やスポーツ武道と一線を画するところだ。65歳で定年(ピークではなく現役の終わり)になる企業人とも異なっている。武芸の本当の醍醐味は「離」から始まり、そこからは正常な生命活動ができなくなるまで終わりはない。武芸の階梯はよく「道」に例えられる。行けども行けども道は続き、終わりがない、そんな時間感覚が生み出した例えではないか。正常な生命活動ができなくなって、道を進めなくなっても、それは新たな「守」の誕生であり、次の世代に繋がってゆく。「守」は変化を嫌わない。初めから破壊されそこから離れることを前提にして継承される。

 

 一般的なビジネスパーソンの育成方法と武芸の育成方法を対照すると、二つだけ決定的に異なる点を見出すことができる。時間と範囲だ。武芸は促成栽培を嫌い、生まれてから死ぬまで育て成す方法を確立しており、ぶれなく継承できるように工夫がなされている。更に、何代にもわたって千年の先まで道を繋ぎ発展させるような工夫もなされている。武芸は他に融通の利かない技術を嫌い、武芸十八般に拡張可能な剣の使い手を育て成す方法を確立しており、ぶれなく継承できるように工夫がなされている。更に、他の芸道は勿論のこと、日常生活を含め人生の全てにわたり成長できるような工夫もなされている。

 因みに武芸の世界にも、一般的なビジネスパーソンの育成方法と同じように、人生のある時期だけを切り取って促成栽培し、特定の仕事にしか使えない者を大量生産する方法が存在する。足軽芸と呼ばれており、戦の道具のような使い捨て人材をつくる方法だ。

 

 「自分は何のために生まれたのだろう」、よく見聞きする問いかけだ。しかし、生まれてくる過程に自分の意思もなければ選択もない。「ただ生まれさせられた」だけなのだ。では何のために「生まれさせられた」のだろうか。いくら考えても答えは一つしかない。「育つために生まれさせられた」のだ。人は死ぬまで育ち続ける。そして、育つことに学問やビジネスなどの境界線はない。芸道も遊びも日々の営みも、みな育つための一本の道だ。武芸の道はそう諭す。

 

方丈の庵

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