2018.05.17
変革の遺構を訪ねて
九十九折りの峰々を貫く山道に、私は車を走らせていた。乾いた路面をときおり雲の影が通り過ぎる。眼下には錦江湾の輝きが見え、その後ろにそびえる桜島は今日も高々と白い噴煙を上げている。遠くには巨大なカルデラの稜線が連なっていて、太古の畏怖を湛えていた。まだ四月になったばかりだが、今年は季節を報せる時計の針がひと回り早く動いているのか、春と初夏とが一度に押し寄せてきたかのような陽気だ。ましてやここ鹿児島は本州より幾分季節が早いから、少し時間を飛び越えてこの地に降り立ったような気分になったものだ。少し暑いので、半分ほど窓を開けてみると、むせ返るような木の花の薫風が車内に勢いよく流れ込んできた。
私は生前の父の足跡を辿る旅の空にいて、錦江湾の縁を巡り、大隈半島の鹿屋に向かうところだった。父は十七歳の時に志願して、鹿屋にある鹿児島海軍航空隊に入隊した。終戦間際の昭和二十年のことだ。父はここで錦江湾を飛び立つ若き特別攻撃隊員の先輩たちを見送りながら、自分の飛び立つ日を待っていたという。数週間でも終戦が遅ければ、私はこの世にいなかったのだろう。その後日本は焦土の上に、世界にも類を見ない大変革を成し遂げていく。
鹿児島は日本のもう一つの大変革である明治維新の発信源でもあった。私は鹿屋を後にすると、歴史を遡る気分で、仙巌園内の反射炉遺構に向かって車を走らせた。鹿児島はどこからでも桜島がよく見える。環境はひとをつくるというが毎日のようにこの雄大な景観を見て暮らしていれば、西郷(せご)どんならずとも日本を変えてやろうなどという勇猛な気質が育つのだろうか。そう言えば鹿児島から発祥した示現流も、日本のあらゆる剣術流派の中で、群を抜いて勇猛な風格を備えている。しかしそれだけではないだろう。地政学的に考えてみれば江戸からは遠く離れた外様の地だし、陸路はカルデラの急峻な山々に塞がれている。“変革は僻地から”という話を聞いたことがあるが、なるほど薩摩は僻地だったし、僻地ゆえに実に制約の多い場所だった。しかし大きな制約は変革を生む原動力になっていたのではないか。いやむしろ、逆手にとって利用していたと見ることもできよう。
この土地から江戸を臨めば中央から遠く隔たっているように感じるが、転じて海路を臨めば異国との貿易をするに格好の環境にあった。屋久島から船で錦江湾を目指せば、美しい三角錐の形をした開聞岳がすぐ目に入る。古の海人たちは開聞岳を目指して海上交易をしていたのだろうか。現に薩摩は海上交易によって、幕末の動乱期を戦い抜くための財力を蓄えていたし、僻地のゆえに隠蔽も可能だった。ところで明治維新といえば、長州藩も立役者に名を連ねるが、こちらは相当酷い目にあっていた、中央に近すぎたのかもしれない。
仙巌園に到着した頃には日は真上にあって、気温も一段と高くなっていた。そしてここからも、桜島はよく見える。ふと思った、噴煙を噴き上げる桜島に、当時の薩摩の人々は日本というものを重ねていたのかもしれない、そして開聞岳は西洋文明を招じ入れる陸標に見立てていたのかもしれない、と。
仙巌園にある反射炉は、海防の必要性が高まった幕末期、輸入に頼らず西洋式の大砲を鋳造するために幕末の名君と謳われた島津斉彬がつくらせたものだ。オランダの書物を手掛かりにしたそうだが、基礎の部分には城の石垣をつくる技術が、燃焼室の耐火煉瓦には薩摩焼の技術が応用されている。ヨーロッパで開発された技術を躊躇なく取り入れただけではなく、独自に工夫を加えているところがいかにも面白い。他にも薩摩は、昇平丸という本格的な洋式軍艦を建造しているが、日本のためにつくったからと、幕府にこれを贈っている。薩摩の近代化は日本全体を思ってのことだった。このときに外国船と見分けをつける惣船印として島津斉彬が幕府に提案したのが日の丸だった。
長く続いた幕藩体制の中で、薩摩は実に主体的だった。そして良いものは良いと新しいものを合理的に取り入れていた。それは若い才能に対しても同様だった。機会を与えられて責任も持たされたので、若者たちも主体的になっていた。変革の舞台には制約と主体性が必要なのかもしれない。
実は西洋式の反射炉をつくったのは薩摩が最初ではなかった。佐賀藩の第十代藩主鍋島直正が薩摩に先んじて大砲鋳造を成功させていた。佐賀藩での成功が伝えられると、近代化を図っていた各藩は大いに刺激を受けた。佐賀藩は各藩に各藩と盛んに交流もしたし、技術支援もしたという。そしてその輪の中に薩摩もあった。変革の舞台裏は驚くほど開放的だった。
その開放的な舞台裏を支えていたのは世界情勢に対する情報感度だった。元々世界と比べても日本人の識字率は高かったが、とりわけ武士階級を中心とする知識層は驚くほど世界情勢を知っていて、清国を蹂躙した阿片戦争の顛末なども熟知していた。とにかくよく関心を持ち、よく調べ、よく考えた。薩摩の武士階級も例外ではなかった。
市街地まで戻ってきた頃には夕日の名残も翳んでいた。夕景の中に陰影を描き間近にそびえる桜島は一層雄大に見えた。路面電車が行き交う賑やかな通りをそぞろ歩いて予約をしていた小料理屋の暖簾をくぐると、「おじゃったもんせ」と女将の威勢の良い声が飛んできたので、「焼酎のソーダ割を」と、私は席に着く前から注文をしていた。さすがに早朝からの運転で疲れが一気に噴き出してきたのだが、その分最初の一口はすこぶる喉に沁みた。そうして預け鉢も食べ終わった頃、私はふと考えていた。思えば明治維新も戦後の復興も、それまでの礎を壊した後のことだった、明らかな終わりがあっての始まりだった……と、今の日本にははっきりと、行き詰まりを感じるのもまた確かなことで、色々な分野から変革を求める声があがっている。だとすれば、今度は何を壊せばよいのだろうか。
私は知覧の特攻平和会館で見た、死地に飛び立つ若者たちの不思議と澄んでいた眼差しを思い出して、生前の父の面影と重ねていた。そしてまた考えていた、父たちの世代が築き上げた世の中の、何を壊せばよいのだろうか。杯を重ねながら、思いつくものを一つひとつ、頭の中で挙げているうちに、薩摩隼人のような気質というものを微塵も持ちえぬ私はなんとなく、宵闇をあてどなく歩く心持になっていた。
方丈の庵