2009.06.03
ドアの開発に、もっとユーザ・インターフェースの視点を入れよ!
ここ数日、都内のビルやオフィスを歩いていて、同じような現象が数度経験することがあった。それは、ビルやオフィスの入り口のドアを開けようとして押してみると、なかなか開かない。おかしいと一瞬考えた後、すぐに引いてドアを開けることができた。この一連の動作を数日間で数回経験したので、まず私自身が「注意力が散漫だったのでは」と反省した。確かにその一面があったのかもしれない。しかし、別の側面から考えて「ドアの側に問題があったのではないか」と考えてみた。すると、意外な共通点に気がついた。それは「必然的に押すようなドアの取っ手の構造になっていた」ことと「『押(Push)』『引(Pull)』などの指示記号や注意書きがされていた」ことだった。指示記号や注意書きがされていると、その通りに行動しないことで自身が間違いを犯したように感じる方が多いだろう。しかし、そもそもドアが押されるような構造になっていたら間違いと感じる必要はなく、むしろドアの利便性が低かったと考えられるのではないだろうか。 利便性とは、商品やサービスを設計・開発・提供するにあたり企業が追求すべきものの一つだが、その追求ポイントや追及レベルがそれらを使うユーザと合致するかというと必ずしもそうではない。つまり、供給側と需要側との間に利便性の認識に対するかい離が発生するケースもあるのだ。これは往々にして起こりうるケースだが、逆の場合もあり、それは「供給側と需要側との間にあるはずの不便さが解消されてしまうケース」である。冒頭のドアの事例も、私というユーザは一見不便に感じてしまった。しかし、おそらく何度か使っていくうちに慣れて、不便さを感じなくなっていくだろうし、実際にその構造や重さに慣れてしまっているドアもある。 普段、人々が「ドア」に対して不便だと感じることは日常的に少ないだろう。確かに、すべてのドアが不便と感じるようなつくりにはなっていない。しかし、中には不便なドアもあるのに不便と感じなくなるのは、ドアが毎日使われ、ユーザは徐々に当初感じた不便さに慣れてしまうからだといえる。タッチ式センサーがあるとは知らずにドアの前にしばらく立ち止まってしまった経験はないだろうか。なかなかスムーズに動かない自動回転ドアにイライラしたことはなかったか。ドアの取っ手が平たかったので押してみたらドアが開かず、良く見ると「引」と書かれているドアを見たことはないだろうか。これらのケースは、最初は不便さを感じた人々が多いはずなのに、誰もが使っていくうちに不便さを感じなくなってしまうのである。ドア自体、人々が強く利便性を感じるものではないが、だからこそ見逃してはいけない視点が隠されている。 それは、「ユーザ・インターフェース」の視点である。特にドアのような日常多くの人に使用されるものに関しては、このユーザ・インターフェースが重要視されてきた。また、派生概念として「アフォーダンス」や「ノーマライゼーション」「ユニバーサルデザイン」といった概念も商品開発上で求められるようになってきた。座り心地の良いイスやソファ、持ちやすいペン、着心地がいい下着、などがそうである。最近では、仕事をする上で快適なオフィス環境や居心地のよい空間デザインによるカフェなども多く見られるようになった。だが、ドアに関しては上記概念に基づくデザインはあまりなされていない。特に、上記の例で挙げた三つ目の「平たいドアの取っ手」に関しては、認知科学者でありヒューマン・インターフェース研究の第一人者であるドナルド・A・ノーマン氏が著書『誰のためのデザイン?』の中で利便性という点で「怠惰で無能なデザイン」とまで評している。 世の中にある商品のほとんどは、人が使うためのものである。その商品に利便性を感じる接点としてインターフェースが設けられている。このインターフェースが開発者―ユーザ間のどこに設定されているのか(「ユーザ寄り」なのか「開発者寄り」なのか)が、人間にとっての利便性を感じるポイントとなる。もちろん、ユーザサイドに立った接点の設定をしているから「ユーザ・インターフェース」と言われているのである。しかし、ドアに関してはユーザ・インターフェースの向上を図ることが難しい。その理由は大きく三つある。一つ目は先述した「ユーザ適応力の高さ」である。日常的な利用度が高いほど、ユーザはその商品の不便性を忘れやすい、ということである。そして、二つ目が「開発者の視点の硬直化」である。ドアの場合、通常のドアであれ自動回転ドアであれ、利便性よりも先決されるのが「建物との整合性」である。ドアの形、サイズ、材質、強度等はドアが設置されている建物とのバランスに依存することになる。その上で「利便性」が初めて机上で議論され始めるため、利便性の優先順位が下がるかまったく考慮しないケースも出てくるのである。さらに三つ目が「記号による補完」である。一見複雑で使いにくそうなドアに対しても、学習して順応していくユーザもいる。その順応を助長するのが、ドアに付されている指示記号・注意書きである。しかし、それらはドアの構造そのものと人間とのインターフェースとは関係がない。本来は、ドアそのものが人間の行動を意図どおりに促せるように開発されていなければならないのだ。 現実にユーザ・インターフェースがあまり考慮されていないドアに遭遇すると、「開発者はもっとユーザ・インターフェースを追求すべきなのでないか」、言い換えると「ドアと人との接点(インターフェース)にもっと着目すべきでないのだろうか。」と考えてしまう。先述した「タッチ式センサー型自動ドア」「回転式自動ドア」「ドアの平たい取っ手」の3つの事例は、ユーザ・インターフェースが本当に追求されているか疑問に思った事例であった。ドアは建物の出入口であるのと同時に、社会の出入り口でもある。だからこそ、ドアの開発者はもっと、ドアと人とのインターフェースを、人間の知覚や特性、生活パターン、行動等の様々な角度で分析する必要がある。その上で、「ドアに関するユーザ・インターフェース」を設計していくことが強く望まれる。 フォレスター