2017.05.15
Outsourcing ME ~ 徒然なるままにAIを思う
夢をみた。 遠く蜃気楼の向こうに、広大なオアシスを囲む煉瓦造りの校舎が揺れている。「私」を乗せたクルマは滑るようにして、砂漠の中に佇む校舎へ向かって進んでいる。17歳の「私」は、どうやら私の孫らしい。祖父である私の「意識」が導く旅に、なぜか「私」も懐かしさを感じている。そこは10年前に他界した私が通っていた学校だ。 校舎の輪郭が徐々にはっきりしてくると、これから始まる新しい学友たちとの暮らしを思い、「私」は少し不安な気持ちになる。すると、コンタクトレンズにメッセージが映し出され、300mlの水と2種類の錠剤を飲むよう指示してきた。「私」は迷うことなく、その指示に従う。「私」だけのための処方箋は、速やかに「私」の不安を消し去ってくれた。 「私」の左耳の裏側に埋め込まれている「もう一人の私」は、「私」の遺伝子情報はもちろんのこと、17年間の出来事と、その出来事にまつわる膨大な「意識」を記憶しており、「私」に代わって考え、判断もしてくれる。例えば、「私」が食事をすべきタイミングを知らせ、その時の気分と体調に見合ったお店とメニューも指示してくれる。おせっかいな話だが、いつも満足しているし、健康を保たれた体は病気にかかることもない。21世紀の初頭にクラウドと呼ばれていた場所に「もう一人の私」が存在し、「私」の心や体を管理してくれているのだ。 因みに、この時代の学校は2時間しか授業がなく、どうしても集団でしかできない学習にのみ、学校での時間を費やすことになっている。必要な学習の多くは「もう一人の私」が、優秀な学友として手伝ってくれるからだ。 この「もう一人の私」は、公共物として世界中の人々の「もう一人の私」たちとも繋がり合っている。その結果、ガールフレンドと一緒に食事をする時は、一人で食事する時と全く違う店の別のメニューが勧められる。彼女と「私」のちから関係も判断材料とされるからだ。その繋がり合いを通して「もう一人の私」同士が相談している絵を想像すると、少し笑えてくる。そう言えば、2年前に別のガールフレンドと付き合い始めた時、この付き合いを続けると健康を害するからやめた方が良いと、「もう一人の私」が指示してきたことがあった。その通りにした「私」は、お陰様で今も健康そのものだ。 「もう一人の私」の中には、祖父である私の「意識」も記憶されている。私が希望し、「私」も喜んで継承した遺産だ。祖父の好きだった学校を迷うことなく選んだのも、私から継承された「意識」が導いた結果なのだろう。 そう言えば、祖父である私が生きていた頃、元々家族やコミュニティの中にあった子育てや教育や介護などの機能が、次々と公共サービスにアウトソーシングされていった。その時の私の「意識」も「私」の記憶の中にあって、家族とはいったい何だったのか、何のために家族をつくるのだろうかと、漠然とした不安がよぎっていたことを覚えている。 その後も科学は飛躍的な進歩を続ける。「私」が生まれた頃には、かつて自己管理を旨としてきた健康までもが公共サービスにアウトソーシングされるようになっていた。「私」の行動や体調や感情がリアルタイムに監視され、繋がり合う「もう一人の私」の中に存在するエキスパートたちの知恵や記録などが、適切な手を差し伸べてくれる。そのため「私」は、17歳になる今日にまで、病気らしい病気を経験していない。肉体の痛みや、哀しみ、怒り、不安などの感情も、ほとんど「意識」したことがない。「私」は、健康的ではないといわれているそれらの状態を、生前の私の「意識」をなぞることでしか知ることができなくなっていた。生前の現実の私が求めていた平穏に満たされた世界が、そこに実現されていた。 その私の「意識」が思う。人は「意識」の多くを、どれほど健康に注いできたのだろうかと。また思う、健康管理のアウトソーシングは、人から多くの「意識」を消失させていくのではないかと。気が付くと、人は自らの「意識」もアウトソーシングするようになるのではないかと。 もしも、自分の「意識」が自分そのものであるのなら、「もう一人の私」とは、自分そのもののアウトソーシングなのかもしれない。 カーテンの隙間から差し込む朝の光を感じて、現実の私の「意識」が少しだけ覚醒する。そして考える。 「もう一人の私」はAIの未来なのかもしれないと、 AIを持てる人、AIを使える人、AIに使われる人に分かれて、その間に大きな格差が生まれるだろうと予測していた人がいた。そうなのかもしれない。しかし、予測の時間軸をほんの少し伸ばせば、科学技術の進歩は、あっという間にAIをコモデティ化するのではないだろうか。 夢の中に現れてくる「もう一人の私」は、友人であり、保護者であり、監視者であり、管理者だった。また、指導者であり、ルーツであり、「私」が育てる子供でもあった。「私」の「意識」を代行し、悩みや苦痛を軽減するとともに、煩わしい判断もリスクの受容を強要される意思決定も、しなくて良いという穏やかな幸福感を与えてくれる存在だった。 また、夢の中に現れてくる「私」は、大きな幸福感を享受するために、「意識」の多くを放棄して他に委ねる人になっていた。人という種として、静かでありながら決定的な進化(≒退化?)を遂げていた。 そんなことを考えながら、現実の私は、ふたたびまたまどろみの中に沈んでいく。 「私」を乗せたクルマは蜃気楼の中の校舎に辿り着く。クルマを降りて煉瓦造りの校舎の開かれた門をくぐり抜けると、中庭に広がるオアシスの水面が空の青を映していた。その周辺に、「もう一人の私」を携えた新しい学友たちが佇んでおり、「意識」があることを感じさせない静かな笑顔で「私」を出迎えてくれるのだった。 私の夢を共有したあなたは、AIの未来をどのように「意識」するだろうか。 方丈の庵