2010.08.16
ビジネスのKKDを“R”enewalしみてよう
20代のビジネスパーソンにとっては耳慣れない言葉かもしれないが、ビジネスにおける意思決定や判断を下す際の指針として「KKD」という言葉がある。KKDとは、日本語の勘・経験・度胸をアルファベットにした際の頭文字をとった略語である。現在のミドル層が若手のころは、「この仕事がこなせるようになるには、KKDが必要なんだ!」と上司や先輩にKKDの必要性を説かれることも多かっただろう。 一般的に、ビジネスにおいて合理的で確実性の高い意思決定や判断を下す際には、何らかの客観的なデータを根拠にすることが多い。しかしながら、そう都合よく必要なデータが揃うことはビジネスでもプライベートでもほとんどない。このような場合に活用してきたのがKKDである。若手社員が複数の選択肢の中から判断に迷っているときに上司や先輩に相談する場合を考えてみると、「この業務を○○年やってきた私の勘では…」「過去の●●のケースでは…」「ここまできたら待っても仕方ない。むしろ状況は悪くなるばかりだ。だからこそ、ここはえいやで…」といったアドバイスや指導をもらい、それによって判断を下すことも多いはずだ。プライベートでも、物品の購入だったり、あるいは恋愛でも、自分が判断に迷う時には、その物品に詳しい方であったり恋愛経験が豊富な方のKKを頼りに、必要な指導・アドバイスが揃ったら最後は自ら“D”を行うことも多いだろう。判断や意思決定を下す為の情報・データが乏しく、また自分では決断するための知識も経験もない場合は、このようなKKDに長けた先達者からの支援を有効に使っている。つまるところ、KKDとは「ある業務・行動を長年経験することによって自らの中に蓄積される、確度の高い意思決定に必要な基準及びタイミングの暗黙知(言葉などで表現が難しいもの)」と定義できる。したがって、なぜそのような意思決定をするのかの客観的な説明が難しいものであると言える。 しかし、ビジネスの現場においては、「KKD不要論」が叫ばれて久しい。インターネットや雑誌・書籍などでも「KKDからの脱却…」「KKDは捨てろ…」といった表現も目につく。それは何故なのだろうか。 このようなKKDが不要だと考えられるようになった一番の大きな理由は、過去に蓄積してきた勘や経験が通用しにくいほどに、変化の読めない社会になってきたことだ。2008年のリーマンショックについても、その発生や影響を予見できたのはごく少数であり、著名な経営者やビジネスパーソンのほとんどがその発生・影響の度合いを予見することはできていなかった。このような勘・経験が通用しない社会になってきたのは様々な要因があると考えられるが、大きな要因としては、①企業・個人が収集する情報・データ量が膨大になったこと、②情報・データをインプットした後の個人の反応が多様化したこと、が挙げられる。 だが本当に、ビジネスの現場においてKKDは不要なのだろうか。他社に先駆けた斬新なアイディアやイノベーションの創出という場面では、長年の勘・経験や大胆な決断を行うための度胸は必要になる。しかし、先の読めない社会の中で、「外部環境の変化を正確に直視せず、これまでの限られた自身の経験や勘に基づく意思決定」をKKDというのであれば、不要である。それは他人から見ればただの思いこみであり、なんら根拠がなく、説得性の低い意思決定でしかないからだ。ただし、そこに外部環境の変化を正確に捉えた明確な根拠・説得性が加われば話は変わるはずだ。 ロジカル・シンキングのベースとなる思考法に、演繹法と帰納法という考え方がある。演繹法は「よく知られている複数の前提から結論を導き出す方法」と定義される。所謂3段論法と言われる手法で、大前提(普遍的な理論、科学的な原理・原則、社会・組織で規定された規則・ルール等)に「全ての人間は、いつか死ぬ」を、小前提(目の前の現象・事実や隠された事実等)に「ソクラテスは人間だ」を置くことで、結論として「だから、ソクラテスはいつか死ぬ」を導き出す。一方、帰納法は「観察した複数の事例をもとに結論を導きだす方法」と定義される。事実情報として「ソクラテスは死んだ」「プラトーも死んだ」「彼らは共に人間だ」を集めて「だから、人間は全員いつか死ぬ」という結論を導き出す。文章であっても口頭での説明であっても、この演繹法・帰納法を組み合わせて論理構成することで、他者から納得してもらえる内容を構築することができる。 KKDに、この演繹法・帰納法の要素を盛り込むとどうなるか。勘を演繹法として、経験は帰納法として再解釈し、それらの論理的な思考に基づく冷静な判断を下すことを度胸として置き換えることができるのではないか。つまり、「マクロ環境・ミクロ環境の情報や、社内外の類似事例から抽出したファインディングとしての勘」「自身や自社に累積された数多くの汎用的な事例から導き出された有益なナレッジとしての経験」「論理に基づいた度胸(のある決断)」へとRenewalすることである。ここでの勘とは、初めて直面するような状況に対して、世間でベストプラクティスとして認められる事例のノウハウを転用することとも言える。このベストプラクティスの応用は、まさに演繹的なアプローチと言える。同様に、ここでの経験は、自身や自社が積み上げて累積した経験則を用いて状況に対応することであり、これはまさに帰納的アプローチである。また、ここでの度胸は、情報・データが完全には揃わないという不確定要素がある状況においても、演繹法・帰納法を用いての論理的な(客観的で納得感のある)意思決定を下すことそのものである。 例えば、ある食品メーカーが取引先の小売店に対しての、自社商品の取り扱いを増やしてもらうための商談の場面では次の様に活用することができる。ここでは、「自社商品の取り扱いを増やすことが、小売店の売上向上に繋がる」ことを示さねばならない。この場合、まず最近のマクロ環境やミクロ環境の変化、また類似の業界の事例から、演繹的に生活者の行動の変化を予測することが「類似の事例から抽出したファインディングとしての勘」となる。そして、自社や同業が取り入れている施策で成功しているものの共通点を帰納的に見出し、その要素を盛り込んだ施策に落とし込むことが「自身や自社に累積された数多くの汎用的な事例から導き出された有益なナレッジとしての経験」となる。最後に、これらを相手に伝わり易いように論理的な企画提案書にまとめ、プレゼンテーションすることが相手に「論理に基づいた度胸(のある決断)」を促すことになる。 このように、旧来の勘・経験・度胸に対して、R(類似事例・累積経験・論理の頭文字のアルファベット)を付加することで、前提が変わっていく環境下でも妥当性を持った意思決定・判断に活用できるKKDとして“R”enewalすることができるはずだ。「あの人は昔ながらのKKDだから…」と後輩に後ろ指を指される前に、自らのKKDを“R”enewalしてはいかがだろうか。 ホームタウン
①の企業・個人が収集する情報・データ量が膨大になったことは、第二の産業革命といわれるインターネットの登場が契機となっている。1990年代後半にインターネットが普及しだしてから、企業・個人が入手できる情報・データが格段に増えてきた。これにより、情報の妥当性の判断や取捨選択にも高度なスキルが必要になる一方で、従来の様に必要な情報・データが完全に揃うことがない状況は変わらない中で、むしろ適切な意思決定や判断を行うことの難易度は上がってしまっている。
②情報・データをインプットした後の個人の反応が多様化したことは、人々の価値観が多様化し、それに伴う行動パターンも多様化してきたことである。これは、これまでの企業の成功モデルが簡単には通用しなくなってくることを意味する。物品の販売の場面を考えても、売り手と買い手の間の情報格差が狭まることで、「プロシューマー(生産消費者)」といわれる人々が出現し、旧来のエリアや性別、年齢などにセグメント毎に買い手の志向を特定することは難しく、一人ひとりの生活者毎に志向を捉える必要性も高くなっている。このような環境の変化が、ビジネスにおける今後の変化を予見することの困難度を上げてしまっている。
このように意思決定が困難で変化の読めない社会になることで、既存のビジネスにおける前提(営業の必勝パターンや、定石といわれる行動等)が大きく変わってしまうことも少なくない。長年の蓄積によって磨ぎすまれてきた勘やこれまで培ってきた経験に基づく大胆な意思決定といった、これまで有効に機能していたことが上手くいかなくなることが増えてくる。これが「KKD不要論」の背景だと考えられる。
では、「外部環境の変化を正確に捉えた根拠・説得性が加わったKKD」とはどのようなものなのか。そもそもそのようなKKDはあるのだろうか。そのヒントはロジカル・シンキングに隠されている。ロジカル・シンキングのメリットは、「物事を体系的に筋道立てて考えることで、他者に分かりやすく伝えられる」ことである。この要素をKKDに盛り込んでRenewalすることで、ビジネスで活用できるKKDに生まれ変わらせることができるはずだ。